緊急連絡~パ シ リ

 ある晩、教室から帰宅し玄関ドアを開けると電話が鳴っていた。
 急いで受話器を取ろうとしたが、間に合わなかった。
 着信データを見ると、携帯電話で未登録のナンバーだった。
 そのままにしておくと数分後に再びベルが鳴った。
 
 その日、レッスンを終えた生徒の母親からの連絡だった。
 生徒が教室に財布を忘れたらしいというのだ。

 いつもレッスン終了後、ピアノが置いてある別の教室へ入って弾いている。
 ほんの数分足らずだが、毎週そんな風にしていた。
 その部屋のピアノの上に財布を置いたが、持って出るのを忘れたと本人は言っているらしい。

 こういうアクシデントがあっても、生徒が直接連絡してくるということは無い。
 勝手に動けないのか、母親の前では固まってしまうのか、知らないけど、とにかく保護者の母親を通して全ての連絡が入る。


 教室と私の家は徒歩10分ほどの距離。
 照明を消して戸締りをして、外のシャッターを下ろし再び鍵をかけ、それで家に着いた。
 私はもう着替えて洗顔した直後だった。
 この状態ですぐに引き返してまたシャッターを上げるなんてできない。
 仕方ないから「明日の朝見に行きますから。」ということで電話を切った。

 翌日、教室に行ってみると、すでに楽器店の社員の人が点検に来て、生徒の財布も発見済みだった。私はその人に受け付けのあるセンター経由で母親に渡してもらうよう頼んで、戻って来た。
 生徒の家に報告の電話を入れておいた。





 


 自分の教えている生徒が教室に忘れ物をする。
 教室内での事は教えている側の責任。
 だから財布を取りに行って当たり前だと思っているのかもしれない。
 電話で報告した時、母親の応対に、そんな空気を感じた。

 取り立てて「ありがとうございます。」
 「お手数かけました。」という口調でもなかった。



 前の晩、電話で事情を説明する時もそうだった。 
 「財布を取りに行きたいけど、どうしたらいいですか?」
 「悪いけど見に行ってもらえませんか?」
 という風に質問するわけでもなく、頼むわけでもなく。
 ただ困惑したお互いのやり取りがあるだけだった。

 結局放っとけないのでこっちが動く。

 自分は言葉に出して頼まず、相手に切り出させる。

 この保護者は「申し訳ないんですけど…。」とか「お願いできないでしょうか?」というような言葉を一切使わない。
 どうして欲しいと物事を頼んだり、どうすればいいのか質問などすると、自分が動くか、相手が動いてくれた事に対し感謝しないといけない。

 なのでそういう時は、相手の責任感や親切心や情を上手く使う。
 支払ってる報酬とは無関係の雑務を頼んだり、使いに走らせたい時は、相手の情に訴える。

 あの晩の電話も、私が教室へ財布を取りに行って当たり前の前提で話をしていたのだと思う。




 だから用が済んでしまうと、何事もありませんでしたみたいな淡々とした空気に戻る。
 








 

 別にかまわない。
 雑務でも何でも引き受ける。
 遠方から通っている生徒を大切にしたいと言う気持ちが働いていた。

 こちらがフォローできるところはできる限りしようと思っていた。

 その時は…。




    
    2004年の秋、生徒が高校3年生の出来事だった。
    旧タイトル、「嵐の後の静けさ」

ノンフィクション
『エリート志向の闇~平気で嘘をつく子供』

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