音楽教室の痛い親子

 13年間で変わった事と言えば、受付のコーナーが閉鎖され、このご一家が隣の市へ引っ越した事。
 そして数人いた他の生徒は、進学シーズンになるとひとりまたひとりと辞めていき、私の生徒はこの男の子だけになってしまった。
 先生は楽器店の社員ではないから、その生徒の来る時間帯だけ足を運べばいい。
 なので水曜日はこの生徒のためだけに教室を訪れる、そんな日々が続くようになった。


 受付が無くなった事で、ひとつの教室に備わっている機能は分散した。
 楽譜は電車で一駅乗って買いに行かなければならない。
 生徒が休むなどの連絡事項は、ここの教室からバスで15分くらいの別のセンター教室で取り合う事になった。
 受付の人に会ったことはない。
 いつも声だけの応答。お互いの状況は見えない。

 4部屋ある教室の個人の部屋を使用していた。
 最初に始める人がシャッターを上げ、最後の人がシャッターを降ろし戸締りをする。
 生徒の数は少なく、常に閑散とした雰囲気だった。

 生徒との連絡、楽譜やお金の受け渡しが順調なら何の問題もなかったと思う。
 教室自体が機能的で無くなった状況でも、工夫次第で何とかなる。
 回していくのは人間だから、意思疎通と事務連絡さえ行き渡れば他の教室となんら変わり無く仕事をこなせたと思う。


 けれど私が相対してきたのはこの親子だから。

 私にとっては最悪な組み合わせ。




 毎月のレポート提出も発表会費を収めるのも、楽譜の購入も電車でひと駅のセンター教室へ足を運ぶ。
 全てに交通費がかかったけど、当時は仕事だからそれで当然のことだと受け止めていた。
 生徒に新しいテキストを用意するのは先生にとって楽しい作業。

 それすら、あの母親のセコいクレームでケチが付いてしまった。


 発表会費も足りなかった年を最後に、二度と出演を勧めなかった。
 もうあの母親から二度と現金を受け取りたくない。
 あの蒸し暑い日の午後の出来事だけは思い出すと不快になる。
 「酸欠と蒸し暑い午後」参照 

 どっちみち生徒も高校3年生になり、大学受験を控えていたので発表会の事はも何も尋ねてこなかった。
  





 そして週一回のレッスンの多くは支障無く過ぎて行った。
 (トラブル続きだったらとうに辞めていたと思う。)
 だから生かさず殺さずみたいな、かなり中途半端な、何とか我慢しようと思えば我慢できる範囲の生徒側のミスをやり過ごしながら、騙し騙しの日々を送っている状況だった。




 遠方から通い続ける生徒。 それがあるから遠慮していた。
 多少の無理は仕方ないと思った。
 感謝もしていた。

 変だと感じてもスルーしてきた。
 自分でも見て見ぬ振りをしてきた。

 あの母親に何か言って波風立てるよりは、静かにやり過ごした方が無難だと感じられたのだ。


 




 だけどこの二人は私の事を、先生ともなんとも思ってなかった。
 


 生徒のついた嘘でよく分かった。
 現実としてハッキリした。



 そう、あの嘘の一件が私にとって全ての終りで全ての始まりだった。
 
 「粉砕された12年 前編」
 「粉砕された12年 後編」を参照してください。





ノンフィクション
『エリート志向の闇~平気で嘘をつく子供』の紹介記事でした。
 

 よろしければこれまでの紹介記事もご覧下さい。
 彼 方
 禁じられた学び Ⅱ
 痛い親子
 大学名を言えない子
 無言の圧力
 痛い保護者

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 あらすじ 

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