無言の圧力

「受話器の向こうの沈黙」 
 生徒を教え始めて最初の発表会の事だった。発表会費の締め切りが迫っているので、私は母親に電話した。
 間に合わないと困るので、持ってきていただけるようにお願いすると、相手は黙ってる。電話口で沈黙されると、どうしようと思う。
 ほんの数十秒のやり取りだったと思うけど、ものすごく長く感じた。

 受話器の向こうでただ吐息なのか笑ってるのか…?
 対面してれば分かるけど、電話だからかすかな雰囲気しか伝わらない。
 どうしたらいいのか、どうして欲しいのか分からない。
 とにかく何か話しかけても、口ごもってて一言も何もない。

 かすかに笑ってるような感じ。
 それでどうしようもないから、仕方なく「じゃあ、私立て替えておきます。」と言うしかなかった。

 すると「それでお願いします。」と明るい調子で返答してきた。
 私がそう言うのを待ってたみたいだった。
 それまで「あの~」も「え~と」も何ひとつ発しなかったのにね。


 ママはこういう時、はっきりしゃべらないんだよね。
 困らせて相手が動くのを待つ。上手いよね。
 曲を選んで準備に入って練習も進んでいたし、スムーズに事が運ぶように、先生としてはそれを考えるだけだった。

 延べ百何十人教えてきたけど、会費を立て替えた事があるのは、このご家庭のだけ。
 会費額は事前に知らせてる。家計を圧迫したり会費の納入が遅れると判断したら、どのお母さんも参加は見合わせる。そう思うよ。自由参加だもの。
 

 多少無理をしても何とかなる。
 誰かが何とかしてくれる。
 お金が足りなければあんた何とかしてよ。
 そんな単純な発想だと解釈してたけど今は違う。
 その後の数々の出来事を思うと、そんな可愛いものではないよ。
 





 支払いを滞らせると誰かが困る。
 ママも大人だからそんなことは充分分かってるはず。
 それでも自分の欲を通す。
 それがママの生き方なんだよね。
 坊やが小学生の時からハッキリしてたんだよ。

 無言の圧力。
 自分の立ち位置を分かってて、静かに強制してくる。
 有無を言わせない強い意志があるんだよ。
 そういう人だよね。
 





 

「緊急連絡~パ シ リ」 
 生徒が高校生の時、教室から帰宅してまもなく連絡が入った。
 母親からの電話だった。
 息子が教室に財布を置き忘れたらしいのだ。
 いつもレッスンが終了してから、数分間別のピアノがある部屋に入って弾いている。

 その部屋の、ピアノの上に財布を置いたけど、出る時それを忘れたと本人は言ってるらしい。

 教室と私の家は徒歩10分ほどの距離ではある。
 ただ、照明を消して戸締りをして、外のシャッターを下ろして再び鍵をかけ、それで家に着いた。
 私はもう着替えて洗顔した直後だった。
 この状態ですぐに引き返してまたシャッターを上げるなんてできない。 
 結局放っとけないので「明日の朝見に行きますから。」ということで電話を切った。


 翌日、教室に行ってみると、すでに楽器店の社員の人が点検に来て、生徒の財布も発見済みだった。私はその人に受け付けのあるセンター経由で母親に渡してもらうよう頼んで、戻って来た。
 そして生徒の家に報告の電話を入れておいた。





 


 自分の教えている生徒が教室に忘れ物をする。
 教室内での事は教えている側の責任。
 だから財布を取りに行って当たり前だと思っているのかもしれない。
 電話で報告した時、母親の応対に、そんな空気を感じた。

 取り立てて「ありがとうございます。」
 「お手数かけました。」という口調でもなかった。



 前の晩、電話で事情を説明する時もそうだった。 
 「財布を取りに行きたいけど、どうしたらいいですか?」
 「悪いけど見に行ってもらえませんか?」
 という風に質問するわけでもなく、頼むわけでもなく。
 ただ困惑したお互いのやり取りがあるだけだった。

 結局放っとけないのでこっちが動く。

 自分は言葉に出して頼まず、相手に切り出させる。

 この保護者は「申し訳ないんですけど…。」とか「お願いできないでしょうか?」というような言葉を一切使わない。
 どうして欲しいと物事を頼んだり、どうすればいいのか質問などすると、自分が動くか、相手が動いてくれた事に対し感謝しないといけない。
 なのでそういう時は、相手の責任感や親切心や情を上手く使う。
 支払ってる報酬とは無関係の雑務を頼んだり、使いに走らせたい時は、相手の情に訴える。

 あの晩の電話も、私が教室へ財布を取りに行って当たり前の前提で話をしていたのだと思う。




 だから用が済んでしまうと、何事もありませんでしたみたいな淡々とした空気に戻る。
 








 

 別にかまわない。
 雑務でも何でも引き受ける。
 遠方から通っている生徒を大切にしたいと言う気持ちが働いていた。

 こちらがフォローできるところはできる限りしようと思っていた。

 その時は…。




    
    2004年の秋、生徒が高校3年生の出来事だった。
    旧タイトル、「嵐の後の静けさ」


                                                  
ノンフィクション
『エリート志向の闇~平気で嘘をつく子供』の紹介記事でした。


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